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| 箱根堂ヶ島は箱根の中で最も早くから温泉地として知られていた、「箱根七湯」のひとつです。
文献にこの箱根山中の堂ガ島温泉の名前が現れるのは、14世紀の臨済宗の僧「夢窓国師」(1276-1351)について書かれているものですが、「夢窓国師」がこの箱根の堂ヶ島に庵を造り一年間過ごしたという事です。夢窓国師は「世の中をいとふとはなき住居にて中々すごき山がつの滝」と箱根堂ガ島を詠まれています。 箱根・対星館の敷地内にはこの「夢窓国師の庵」があります。もともとこの庵は早川渓谷の対岸の対星館裏手にあったものですが、場所がわかり難く、訪れる人も少なかったので、40年ほど前に現在の地に移築されました。鎌倉時代には地蔵信仰が盛んになり、箱根には多くの地蔵、石仏が作られました。箱根・対星館の庭園にもその名残があります。箱根に限らず、古代には現在のようにボーリングで温泉を取り出す事は出来ませんでしたので、温泉を利用出来るところは、地下から湧出する場所に限られていました。この箱根の堂ヶ島では崖から湧き出してくるものを利用したり、崖に横穴を掘って利用したと書かれています。 当時から江戸時代の終わりので、箱根・堂ヶ島には常に5-6軒程度の宿がありました。また、人々は箱根の自然の中で樵、早川での漁業、林業、石工、農業、木工も行っていたようです。箱根・対星館の庭園のいろいろな灯篭、石橋、つくばいも箱根・堂ヶ島の石切り場の石を使ってここで作られました。石切り場の跡が箱根・対星館の敷地に残っています。 江戸時代となると、江戸の町民が箱根をしばしば訪れるようになり、温泉は古来からの療養などの為だけではなく、湯治という名目で娯楽として利用されるようになりました。当時は一週間の滞在を「一廻り」と称し、通常、箱根では一廻りか二廻りの滞在となり、江戸からの往復で1カ月近くの旅行となりました。 この頃の箱根への旅行ガイドブックというべき「七湯の枝折」(1811)には「堂ヶ島では深山幽谷にもかかわらず、小田原の初鰹を食べ、湯女の言葉、身振りに至るまで、江戸の手振りみなれ、聞きなれ、みやびで風流である」と書かれています。 当時から、箱根の宿にはこの堂ガ島を含めて、小田原から魚類が毎日配達され、また、江戸の文化の影響もこのように強く受ける「江戸の奥座敷」のような場所であったようです。 明治時代になると箱根は横浜、東京に到着した外国人のリゾートとなりました。箱根・宮の下の富士屋を中心として海外からの旅行客も数多くこの箱根を訪れるようになりました。 明治の中期にはこの箱根・堂ヶ島一帯は「遊園」(現在でいうレジャーランド)として開発されました。この「遊園」には温泉プール、動物園、展望台、散策道などが造られました。対星館のケーブルカーはこの遊園と旅館へのお客様の輸送の為に、昭和5年の対星館開業と同時に建設されました。 箱根・堂ヶ島は国道が開通した箱根・宮の下の町に比べて、生活するには不便となり、一般の住民はだんだん宮の下へ移住してゆきました。 やがてこの地は旅館2軒だけに統合され、そのうちの1軒が、昭和5年に現在の対星館となりました。松本清張は昭和33年に「週刊明星」に一年以上連載した推理小説「蒼い描点」でこの箱根・堂ヶ島を舞台としています。また、川端康成の「名人」にも対星館での対局場面が書かれております。 |